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九谷焼の歴史

1. 九谷焼の誕生(17世紀後半)

江戸時代前期は、九谷焼が誕生した時期です。

九谷焼は、大聖寺藩 初代藩主の前田利治のもとで、1655年に作り始められた磁器です。鉱山開発の最中に、領内の九谷村で陶石が発見されたことがきっかけとなり、伊万里焼の技術を導入して、磁器の生産を始めました。陶石の産地となった九谷村に窯を築いたことで、その地名にちなんで「九谷焼」と呼ばれるようになりました。

特にこの時期に作られた九谷焼は、後世「古九谷」と呼ばれ、その青手や色絵の美しい絵付けのスタイルとともに、磁器の職人や知識人たちの間で特別視される名作として、大切に受け伝えられてきました。

しかし、古九谷は制作開始からおよそ50年後に、突然生産が終わってしまいます。大聖寺藩の財政難による資金不足や、藩主の代替わりで政策の方針転換など、制作終了の明確な証拠は見つかっておらず、今日まで「謎」として残されたままです。

2. 九谷焼の復活(19世紀)

江戸時代後期は、途絶えていた九谷焼の制作が復活し、さらには赤絵のスタイルが誕生した時期です。この時代に生まれた九谷焼を、「再興九谷」と呼んでいます。

古九谷の制作中止から約100年後、加賀藩の城下町: 金沢で、磁器生産が再開されました。京都の磁器職人の技術指導によって、加賀国 (現在の石川県) で再び磁器が作られたのです。新たに伝えられた技術と古九谷の独創的なデザインを結びつけ、九谷焼の復活を目指す人物が大聖寺に現れます。

吉田屋伝右衛門は、大聖寺の城下町に住む富裕な商人で、青手古九谷の復活を強く願い、1824年に、窯を築きました。その窯は、彼の屋号 (店の名) にちなんで「吉田屋窯」と呼ばれていますが、経営難で1831年に閉鎖に追い込まれました。

吉田屋窯は閉鎖直後、現場の支配人であった宮本屋宇右衛門へ引き継がれ、「宮本屋窯」として再開します。宮本屋窯は、加賀藩の磁器の影響などから、赤絵のスタイルを採用しました。

吉田屋窯の閉鎖で衰えた青手九谷でしたが、1848年、大聖寺藩が築いた「松山窯」で青手の九谷焼制作に取り組みました。

3. 名工の誕生と産業隆盛(19世紀末〜 20世紀前半)

明治時代〜昭和時代前期は、窯元の職人たちが作家として自立し、さらには江戸幕府を継承した明治政府の産業振興により、九谷焼の輸出産業が盛んになった時期です。

旧大聖寺藩の職人たちは、作品の品質をさらに高めることで、「窯元の中の一職人」から「美術工芸品の作家」となって名を挙げようと努力しました。彼らの中から、絵付け技術の指導的立場で次世代の作家をリードした竹内吟秋・浅井一毫兄弟や、書や食のジャンルで幅広い活躍をした北大路魯山人に陶芸を教えた初代須田菁華などの名工が輩出されました。

一方で、旧加賀藩の職人たちは、輸出産業に活路を見出し、金彩をふんだんに施した赤絵の九谷焼を中心に、欧米向けの作品を数多く生産しました。彼らの中心となったのが、赤絵と金彩による精密な色絵付けで名高い九谷庄三です。

4. 「現代芸術」としての九谷焼(20世紀後半〜)

昭和時代後期〜現代は、伝統的な美術工芸品としてのブランドを確立した九谷焼が、現代芸術の要素を取り入れて、「工芸品」の枠を超えた「美術品」として制作されるようになった時期です。また、新たなライフスタイルにあわせた多種多様なデザインの器が生み出されることも、現代九谷焼の特徴です。

古九谷をはじめ大聖寺藩以来の伝統を守り伝える加賀市では、伝統的な色絵の技法をもとに、中近東のエキゾチックなデザインや彫刻による飾り付けなどを取り入れて独自の作風を築いた、現代九谷焼作家がリードしました。

また、加賀市に隣り合う小松市では、色絵の具のグラデーションによる鮮やかな絵付けを完成させた技法。また、金の飾り付けを釉薬でコーティングすることにより上品な輝きを放つ作品に仕上げた吉田美統氏が「人間国宝」の認定を受けました。